2017年12月11日月曜日

観測隊/日本南極地域観測隊の歴史

*しらせ乗船中は通常のインターネット接続が不可能なため、メールでの投稿を行なっています。本記事はインターネット接続可能になったあとで画像の追加や文章の改変を行う予定です。またコメントも閲覧できません。

 先日は土日だった(すごいイベントみたいな書き方)のでこれは堂々とやるチャンスだと思い、PS Vitaをやっていました。ヒャア、ゲームデーだ! 世の中Switchだというのに(*1)Vita。しかも『風来のシレン5+』(*2)と『イース8』(*3)と微妙に時代に乗っていない。ちなみに『シレン5+』は去年入院中に買ったものです(*4)。
*1) 観測隊にも持ってきている人がわりとおり、外国人研究者が「みんなSwitch持ってやがる(*意訳)」と言っていましたが、彼のTシャツの背も「Nintendo」の文字が。ここまで侵食してくるか任天堂!
*2) 旧チュンソフトでSFCから発売された『風来のシレン』を元祖とするゲームシリーズ。当時の日本ではローグライクといえばこれと『トルネコの大冒険』しかなかった。
*3) 赤毛の冒険者アドル・クリスティンが各地で女性を取っ替え引っ替えしながら冒険していく日本ファルコムのゲームシリーズ。8だが8作目ではない。今作はヒロインがいきなり全裸だったので「ファルコム攻めてるな」と思った。
*4) でもメインでやっていたのは3DSでダウンロード販売されていた『ファイアーエムブレム 聖戦の系譜』(20年くらい前のSFCのゲーム)。

 のっけから何のブログかわからない出だしとなりましたが、今回は日本南極地域観測隊の簡単な歴史について。

 まず世界の南極に関する歴史を簡単に見てみましょう。
 南極大陸そのものは古くから知られており、17世紀中頃の地図には既にその姿が描かれており、南極一周航海もされていました。18世紀から19世紀にかけては南極は捕鯨やアザラシ漁のための場所として使われていましたが、それはあくまで沿岸の商業的な行為で、漁師たちは大陸の中へはけして入っていこうとはしませんでした。

 しかし20世紀、それまで世界の様々な場所を踏破してきた冒険家たちが、未だ踏破しえぬ最後の場所として南極大陸を——とりわけ南極点(南緯90度地点)を選びはじめました。当時、有力とされた男がふたり。

 ひとりはロアール・アムンセン。

 ひとりはロバート・スコット。

 最終的にこの競争は馬ではなく犬橇を持ち込んだスコットに軍配が上がりましたが、スコットはノルウェー、アムンセンはイギリスとどちらも欧州の人間であり、南極点到達争いはさながら欧米列強の争いを南極まで持ち込んだだけのように見えなくもありませんでした。

 しかし実際には南極点を目指す探検家たちの陰に、日本人の姿もありました。
 初めて南極点を目指した日本人は、白瀬矗(しらせ・のぶ)中尉だったといわれています。陸軍教導団騎兵科だった彼は、何を思ったか北極点到達を計画。アメリカのピアリー隊に先に北極点に到達されてしまったため、代わりに南極へと急遽舵を取ります。このとき明治42年(1909年)、白瀬は47歳。
 1年後の明治43年(1910年)11月29日、排水量204トンの開南丸で探検に乗り出しました。しかしこの年の12月14日、ノルウェーのアムンセン隊が南極点初到達となり、白瀬隊の南極点初到達は夢と消えました。
 彼らは南緯80度5分、西経165度37分まで到達し、その地点を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名。一人の犠牲を出すこともなく、日本へと帰国しました。

 日本が改めて南極へ目を向けるまでには、それから50年近い時間を要します。昭和30年(1955年)、戦後の空気で澱む8月24日、日本で第1回南極地域公演特別委員会が組織されました。同年9月、IGY特別委員会南極分科会にて日本の南極観測参加が承認。
 実はサンフランシスコ平和条約2条に日本は「南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権限又はいずれの部分に関する利益についても、すべて請求権を放棄する」という条文があったため、日本の南極観測参加には強固な反対をされていましたが、最終的には承認されました。

 同年11月、政府が南極観測参加を決定。未だ戦後10年の時代に、1年で全ての準備を終え、1956年(昭和31年)11月8日、東京晴海埠頭を永田観測隊長以下53名の第一次隊を乗せた「宗谷」が出航しまいた。
 昭和32年(1957年)1月20日、宗谷は定着氷縁に接岸。東オングル島まで13kmの地点。
 同年同月29日、東オングル島に上陸。この場所を昭和基地と定めます。
 同年2月、プレハブの昭和基地が完成。宗谷は日本への帰路を取り、残された11名の隊員で越冬が開始するも、海氷上の食料の2/3が流出、小屋が火事で消失、ブリザードで破損するなど、さまざまな試練に遭います。

 しかし試練に遭ったのは越冬隊だけではありませんでした。翌年は海氷が厚く、宗谷の南極到達は遅れに遅れてしまいました。
 結果として昭和33年(1958年)2月24日、深夜の臨時発表で第二次越冬を断念。宗谷は人間のみの救助を行い、樺太犬15頭までは手が回らず放置されることとなりましが、さらに翌年の1959年1月、派遣された第三次隊で、生き残りの樺太犬であるタロ、ジロを発見されました(*5)。
*5) ちなみにタロ・ジロは現在はなぜかしらせ艦内の隊員居住区の掃除用具入れの名前になっていたりする。

 1960年、第4次隊の福島隊員が遭難(のちの観測隊で遺体が発見)という大きな事件も起きましたが、1961年に南極条約において、51の条約締結国の中から12ヶ国選ばれた原署名国のうちのひとつに日本が選ばれることとなりました。

 1910年の白瀬矗中尉による最初の南極探検から約100年、戦後の日本学術最大の挑戦とも呼ばれた南極観測開始から約60年が経過し、今回の第59次日本南極地域観測隊があるというわけです。

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Maira Gall